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25件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2019-03-13 第198回国会 参議院 予算委員会 第8号

世紀中頃までは一代に一度行われる大嘗祭と毎年行われる新嘗祭との区別はなかったようですが、第四十代の天武天皇のときに初めて大嘗祭新嘗祭が分かれて、それ以降、大嘗祭一世に一度行われる極めて重要な皇位継承儀式とされ、歴代天皇は、即位後、必ずそれを行われることが皇室伝統となったようでございます。  大嘗祭は、明治より前、特に奈良平安時代には簡素に行われていたようでもあります。

長浜博行

2018-07-05 第196回国会 衆議院 災害対策特別委員会 第8号

日本書紀に、六八四年の白鳳地震、ちょっとお話ししますと、天武天皇十三年の十一月二十九日の夜、後に白鳳地震と呼ばれる巨大地震があって、これは日本書紀にしっかり書かれていて、国じゅうの男女が叫び合って逃げた。山が崩れ、川があふれた。諸国の郡の官舎や百姓の倉庫、寺社が壊れたものは数知れず、人や家畜が多数死傷した。伊予、今の愛媛県の温泉が埋もれ、湯がとまった。

杉本和巳

2018-04-11 第196回国会 衆議院 内閣委員会 第9号

日本のギャンブルとか賭博というのは意外と歴史がありまして、もともと日本書紀に書かれている内容から考えると、天武天皇がすごろくの賭博に興じて奥さんに怒られた。また、その奥さん天皇になって、持統天皇ですね、なられたときに、六八九年、すごろくの賭博を禁止する法令を初めて出したということで、その後にも歴史的に何回も法令を出したんですけれども、功を奏さなかったということも事実でございます。  

大西宏幸

2016-12-08 第192回国会 参議院 内閣委員会 第9号

持統天皇の前は天武天皇なんですね。日本書紀にこんなことが書いてあるんですよ。六八六年九月十八日、天武天皇は大安殿、内裏の正殿ですね、にお出ましになって、王卿らを前に召して博戯、すごろくなどの賭け事ですね、をされたとあります。この頃流行したのが、すごろくばくちでありまして、これは唐から渡来したもので、さいころを振ってすごろくで相手陣地に入る、そういうものなんですね。

大門実紀史

2016-12-08 第192回国会 参議院 内閣委員会 第9号

質問の中でいきなり天武天皇の話が出てきましたので、天武天皇がさいころにはまって、その後お亡くなりになったと、皇后陛下は非常に嘆き悲しまれて、それが千三百年の伝統になっておるというお話が大門先生の方からありまして、後で大門先生に質問しようかなと思っておりましたところ田村先生に替わられましたので、私は、千三百年の日本人の伝統の中にそういうものが国民の中に息づいておるものであるならば、どうして宮様のお名前

浅田均

2013-05-14 第183回国会 参議院 予算委員会 第17号

日本天武天皇を最後として武人天皇というのはほとんどいらっしゃらなかった。皆さん文人天皇であって、科学を愛し、文化を愛し、音楽を愛し、今の陛下もそうでございますけれども、科学の研究にいそしみ、そして農民のルーツということの中からお田植をおやりになり、毎年歌会をやっていらっしゃる。そして、万葉集以来、これほど多くの陛下の歌が歌っている国というのはほかの国にはないものだというふうに思っています。

谷岡郁子

2013-03-21 第183回国会 衆議院 農林水産委員会 第3号

私も伝統を尊重する立場の人間でありますから、捕鯨に関しても、ちょっと調べたところによると、天武天皇四年の、六七五年だそうです、肉食を禁止する詔にまでさかのぼるんだそうです。これはもう千三百年以上の文化ですから、物すごい伝統であるというふうに思っておりますので、我が国固有食文化であると言えると思います。  そういった意味で、鯨は大変重要だと私は思っているんです。

鷲尾英一郎

2006-03-24 第164回国会 参議院 予算委員会 第16号

そして、歴史に対する誇り、あの当時、天武天皇持統朝の飛鳥・藤原時代、世界の文化を全部集めて文化国家をつくった。そのころの歴史に思いをはせて、しかもこのようなすばらしい美女ですよ、我が日本元祖美女ですよ。こういう誇りを全部国に預けて、きっとちゃんと守ってもらえると思ってあのときの地元の明日香村の文化財の専門家奈良県の橿考研専門家も、これは国でやってもらおうと思って預けたんです。

前田武志

2001-10-25 第153回国会 衆議院 国会等の移転に関する特別委員会 第3号

それで天武天皇の方に移るというようなことで、成功しませんでした。  ですから、やはり首都を、特にこの二千万、二千五百万人の人をみんな、これはさっき話がありましたけれども、好きで集まってきている人を動かすような革命的熱気は全然感じられないわけですので、大変難しいな、こういうふうに思っております。それが第一点でございます。  

野村光司

1997-02-19 第140回国会 衆議院 予算委員会 第16号

それから、やはり日本は火山列島でございますから、古い文献によりますと、天武天皇十二年の十月十四日、西暦六八四年でございますから今から約千三百年前、伊豆七島のことが詳しく文献に書かれております。どういうふうに書かれておりますかと申し上げますと、伊豆島西北自然増、火山が噴火して島が一つふえたということであります。ますます三百余丈さらに一島をなすということが載っております。

権藤恒夫

1994-11-21 第131回国会 衆議院 世界貿易機関設立協定等に関する特別委員会 第4号

このような新嘗、大嘗は、それ以後、第三十四代舒明天皇、第三十五代皇極天皇、第四十代天武天皇それから第四十一代持続天皇などによって行われたとも記されておりますところでございまして、古事記、日本書紀が編さんくれた奈良時代以前に由来するということは明らかでございます。  

角田素文

1990-05-24 第118回国会 衆議院 大蔵委員会 第11号

ただ、もちろん皇室でも行われていたわけでございまして、皇室では七世紀中ごろから、一世に一度行われる大嘗祭と毎年行われる新嘗祭区別されるようになったわけでございますが、天武天皇以前はいつからこれが区別されたかということは明らかではございません。天武天皇は第四十代でございますが、天武天皇のときに大嘗祭が行われたことは記録で明らかでございます。

井関英男

1990-05-24 第118回国会 参議院 内閣委員会 第3号

ただ、大嘗祭というのは、よく言われますように天武天皇御代から新嘗祭と区分して即位儀礼の一つとして行われてきておる、こういう歴史的な沿革を持っておりまして、毎年行われるそういう新嘗祭のような行事とは違いまして即位に伴ういわば儀式という形で大嘗祭は行われてまいっておりますし、そういう形で行われるわけでございます。

宮尾盤

1990-05-24 第118回国会 参議院 内閣委員会 第3号

あるわけですが、七世紀末、天武天皇の時期から、これは新嘗祭はもちろん毎年行われてきておるわけですが、即位なさったとき、御即位の後一世一度の重要な即位儀礼といたしまして大嘗祭という形で新嘗祭とは区分して行うということが歴史上始まったというふうに、そこが初めてかどうかは知りませんが、少なくとも歴史書にある一番最初の記述というのは天武天皇のときからだと。

宮尾盤

1990-04-17 第118回国会 衆議院 内閣委員会 第3号

それから、奈良時代に入りましては大嘗、新嘗の区別がなされまして、一番最初にその区別が行われて大嘗祭をとり行われたのは第四十代の天武天皇のときからであると言われております。  以来、御即位の都度、皇室にとりましては一世一度の非常に重要な即位儀礼という形で行われてまいりまして、そういった点は貞観儀式等にもきちんといろいろ書かれておるわけでございます。

宮尾盤

1989-11-02 第116回国会 衆議院 決算委員会 第2号

東中委員 旧皇室典範がつくられたときに、伊藤博文伊藤伯爵が書いている「皇室典範義解」というのによりますと、「大嘗の祭は」「一世一たび行はる々者なり(天武天皇以来年毎に行ふを新嘗とし、一世に一たび行ふを大嘗とす。)」というふうに書いています。それから、古事類苑でもその点は全く同じことで、この祭りは、「大嘗は、古語にオオニへと言い……。

東中光雄

1988-03-09 第112回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号

○田中(美)分科員 先ほど参考地でさえその見込みは十分にあるものなんだというふうに言ってらしたのに、今度は陵墓でさえ今たくさんの意見があって統一見解が出ないんだ、それは言えないんだ、こう言っていらっしゃいますけれども、考古学者は今言われました八百九十三、この中で宮内庁が天智天皇御陵だ、天武天皇御陵だ、持統天皇天武天皇の次の天皇ですから、奥さんだった方ですが、一緒に埋葬されていますね、この二つしかない

田中美智子

1988-03-09 第112回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号

さて、せんだっての委員会でも承りました、即位の礼を皇室典範によって行うことができる、しかし、かっ前例を重んずるというたびたびのお答えの趣旨にかんがみまするときに、どうでありましょう、即位の礼というものは、これは大宝令あるいはまたそれ以前のいわば伝統から申しましても、まず践祚、そして即位、そして大嘗祭、この大嘗祭につきましては、これは天武天皇以来の伝統と承っております。

滝沢幸助

1979-05-08 第87回国会 参議院 内閣委員会 第7号

政府委員山本悟君) 四十代の天武天皇西暦で申し上げまして六八六年の九月九日に崩御をされましたが、時の皇太子の草壁皇子といわれる方がまだ年が若くっていらっしゃったために皇后が実際の政をとられた、朝に臨まれたと、こういうような史実がございまして、皇太子はその後間もなく薨去をされたというような事情があって、四十一代の天皇にはその間に数年の、約三年でございますか、時代があいたというように歴史承知をいたしているところでございます

山本悟

1973-03-28 第71回国会 衆議院 商工委員会 第11号

ところが、この山というのは、あなたがお調べになって御承知のとおり、紀元千三百三十四年天武天皇時代からの歴史というものが実はある。それで千三百六十一年と、こうずっと銀を出した歴史があるわけですが、二千三百十年の孝明天皇のときに現在の佐須銀山というものが開かれた。そうして採掘を開始されてきたというようなことで、このからみというのは実はずっと集積されてきているわけですね。

中村重光

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